9.森の中の木
コボット達の増殖に圧され人間の住まう場所は狭まってゆくだけなのか。
悲観とは別物の命運を想う気持が強まる。
人生の折り返しを過ぎた中高年以上の面々は、いかなる明日が到来しようと受け止めて認める覚悟が必要だ。なぜなら現状を招いた当事者だからである。自分で蒔いた種の発芽物から逃避したり無関心を決め込んだりは許されるものではない。
自身の来し方が今と今からをもたらしたのだと、すべて認めて受け入れなければならない。
自業自得のわが身はさておき、若年世代やそのあとに続く子供たちの未来では、コボットや自律稼働する機器の進化と増殖は福音となるのかが気になる。
「それでいいのだ」「わかっちゃいるけどやめられない」「それを言っちゃあおしまいよ」で笑ってすませばいいものなのか。
悲劇が煮詰まって、やがて喜劇に昇華する――若者たちがそれぐらいの図太さとたくましさを持ち合わせてくれたらいいな、と身勝手な夢想をしてみたりする。
■人体実験
人の国、機械の国。
これなら世界が二分されてしまっている。
人の物流、機械の物流。物流の森に在る人と機械。
それは現場が二分されたり、併存する様相だ。
人々の中の機械、機械の中の人々。
考えようによっては共存している様子がうかがえるが、実態は優劣や主従が発生しているに違いない。
いったいどんな想像や表現が適当なのだろう。
さまざまな言葉が浮かんで漂う。
物流の森でコボット分布域が拡がれば、人間の生きる場所は限られてくる。
老成国や経済成熟国――と聞こえだけはいいものの、その実は「過去の国々」と揶揄されるわが国が属する一団。
人口爆発国での省人化は、負けないための方策。
老人国での省人化は、負けた後の方策。
建前外して言い表せば、それが素直な表現だと思える。
市場で存在し続けるために、プレーヤー自らが雇用削減を是とし優とし正とする経済活動の行き着く先にはいったい何があるのだろう。
物流の森を俯瞰すれば、どうもわれわれは相反や矛盾にまみれた存在価値を問われているらしいが、今のところ誰も実感がわかぬ。
労働人口の抑制は、消費活動の閉塞と人間の生存否定につながりかねないというのに、その潮流を進化や未来と尊んでいるのは、まさに否定される人間たちだ。
合理化や技術革新による労働者の生存率を人体実験しているのだとしたら、それは自死の禁忌を犯す者。
宗教家ならそう警告するのかも知れぬ。
生物学者なら、環境変化に順応できる個体の選別と説明する、は非人道的過ぎるのだろうか。
■淘汰の母
物流業務の省人化や機械化はわれわれ物流人が自ら望み、他業界の英知の助けを借りて進めているものだ。この数年の開発推進や技術革新はすさまじい。拡がって深まって膨らみ続けている未来技術市場の外郭に線を引ける者はいない。どこまでが物流関連の自動化や省人化にかかわるモノなのかは、その場面や時期ごとでしか判断できないのではないだろうか。
つまり全体調和や最適状態の測定は、見えざる手のようなややこしい存在の擬人化によって強引に結論づけるという、大昔からの常套手段にすがりそうだ。
「市場や他社がどうなるかよりも、自社や自分がどうあるのかのほうが重要だ」
のような声も月並みすぎて、書き記すまでもないだろう。
そして進化の最先端を走っていたはずの面々が、あっという間に後退し、まもなく視界からも消えてしまう。そういえば、めまぐるしく先頭集団が入れ替わるのも過去の常だった。
進化とは淘汰の母なのだという現実は時代や対象を選ばずに貫かれている。
■農業の歴史に学ぶ
物流の未来を想うとき、まず最初に脳裏に浮かぶのは農業の歴史だ。
現在の物流業界の直面している問題や課題、希望や期待の行く末の姿は、農業の今と訪れつつある未来形の中にあると思える。
従事者の高齢化、後継者不足、農業の工業化、機械化と省人化、品種改良や土壌改良などへの科学的アプローチ、AIによる気象情報の分析と対処行動、属人作業や経験依存からの脱却、異業種からの技術提供と業務提携、営農から経営への変革と新規参入者の増加。
構造的な改変が起こり、その流れが速まり拡大した時に、従来の農業人たちは何を想い何をしたのだろう。
頑なに拒み、去った者もいれば、保守の囲いに引き籠った者も数多くいただろう。
新しい風と水をすぐに受け入れ、近代農業・技術革新の名のもとに、既存の価値観や方法論を廃し、違う切り口から農業をビジネス化した新世代たちの台頭は、マスコミの注目や礼賛と流通側の支持も取り付けて興隆の一途となった。
耕作環境の改善や技術開発と並行し、農作物の品種改良が活況となり、次々に耐性に優れた作りやすく安定供給できる農作物の流通に寄与してきた。
店頭に並ぶ近代農業製造物は、洗浄されて清潔、大きさが揃って陳列映え、価格も安くブランド化やパッケージ化されて、リピート買いの喚起作用も施されて抜かりない。
いつの間にか、人々の食生活は均一化した農作物供給によって支えられるようになり、全員が同じ大きさの同じ値段の食物を摂るようになる。
均一化は価格と供給の安定化を約束してくれる。
さらにはトレーサビリティの開示によって、由来の安全も担保されている。
食材への疑いや迷いは薄らいでゆくばかりだ。
かといって信頼や安心しているわけではなく、ただ単に不安ではないだけなのかもしれぬが。
■工場の野菜、畑の野菜
土のにおいのする野菜、虫食い跡のある野菜、不揃いの大きさ、曲がったり欠けたり歪んでいたり。
各地の道の駅や野菜直売所などでは、畑からとってきたばかりの野菜や果物が手に入る。
農業界において生産と流通の両輪で進めている、農作物の供給合理化――価格と品質と安全の安定化――が成果を積み重ね、日常の食インフラとして定着しようとしている現在の様相とは正反対の位置にある農産物への関心や需要は活発そのものだ。
この現象をどう理解すればよいのだろう。
背反せず並立し、しかも同じ人が同じ財布で購入する「スーパーマーケットのきれいな人参」と「道の駅の野菜直売所の不揃いの人参」や洗浄済み・漂白済みの綺麗な野菜と土の付いた茶色い野菜。購入者に迷いや違和感は見当たらない――つまり、いずれも食材であるし、由来の異なるだけの「野菜」なのだ。ほとんどの生活者は、大仰な理念や主義主張など意識することなく、目の前にある欲しいもの・食べたいものを買っているだけだ。
■なりゆきと公営ギャンブル
場面や時間や価格や気分の組合せで買う・買わないを決めているだけ――ということすら無意識であることが大多数。
つまり「なりゆき」という結果論でしか語れない購買動機にいきつく。それは予測しても相当比率のずれや目論見違いが常に残存するに違いない分析対象物だ。実例は動物やビークルと人間が組み合わさって、勝敗を競う公営ギャンブルの数々が好適だろう。AIで予測可能なら、明日から誰も事業や労働をしなくなってしまいそうだ。
そうなりえないのは、AIがいかに進化しても、馬やチャリンコやバイクやボートとそれを操縦しているのかされているのかあやしいところである人間の組合せは、膨大な統計や分析を施しても、「正解」に至る確率は上がらないからだ。
人間という要素が存在する限り、統計は常に結果でしかない。
予見や予想はあくまで字面の範囲を超えるもではないのだろう。
だからこそ、工場の野菜と土の野菜をその時々の成り行きで購入する人間の営みは、AI達の完全な把握下にはおかれないという気がしてならない。
このように考えてみると、コボットの増加も人間の働く領域の狭まりも、すべて自然の営みであり、その波動がもたらす淘汰の過程なのだと思い至る。
進化は淘汰の母だとすれば、その長大な流れの中にある個体間に優劣はない。
大きな調整の力が働いているだけ、、、しかしそれを神や天とはすり替えてはならない。
何ひとつ否定されたり拒絶されたりしていないし、強いられたり湾曲したりもしない。
何人の恣意でもないくせに、万物万人の意志としか説明できない「力と流れ」が時代を動かしていく。
■物流の森
物流の森に生きるわれわれ物流人とコボット達。
すべての存在は、森の中の木々なのだろう。
森の中の一本であり、その集まりがひとつの森となっている。
時代ごとに姿を変えつつ営みをつないできたのは、人間だけではなかったはずだ。
人間が無上で別格の存在だと思う不遜が、大きな営みの理解を妨げているのではないのか。
コボットは人間が創り出したものだが、必ずしも人間の奴隷や劣等の位置にとどまるものではない。
なぜなら自然界が生み出した人間が自然の僕(しもべ)となることを良しとせず、さまざまな工夫や知恵で抗ってみたり、かわそうとしたり、抑え込もうとしたりを止めないことに倣うに違いないからだ。人間の子であるコボット達の行方は、われわれの来し方と似たものになることなど始まりの時から判り切っていたはずではないのだろうか。
白夜が続く極地帯。
暮れているのか空けているのか定かではない視界の先にも人間の営みはある。
灼熱の赤道直下域で炎天と不毛にさらされながら暮らしを続ける人々。
いかなる環境や境遇にあっても、人間は生きてゆく。
わが国がたそがれの時代にさしかかろうとも、白夜のような毎日が続こうとも。
結論や予見にたどり着くつもりで書き始めた自分自身を恥じている今。
人の営みを書くには、何もかもが足らぬ己の未熟と無能だけを思い知った。
なのになぜか晴れ晴れとして清々とした心情なのが不思議だ。
(了)
永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。
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